ようじゅに虎みゝづく  154.3X73.0 絹本着色


白花と赤しょうびん 


草花と蝶


エビと魚


白い花

田中一村
田中一村の画像 1977年9月12日、彼は奄美大島・名瀬市郊外に借りていた粗末な家で事切れているところを発見された。 前日、ひとり暮らしの夕食の準備をしている時に、心不全で倒れたらしい。床には刻んだ野菜の入ったボールがころがっていたという。生涯独身だった一村の、誰にも看取られない最期だった。享年六十九歳。
1980年3月、NHKディレクターの松元邦暉は、取材の途中に立ち寄った奄美大島・名瀬市のダイバーの家で、壁に無造作に貼られた一枚の魚の素描に目を留めた。迫力ある筆致に心を動かされた松元は描き手の名を尋ねた。
「田中一村という画家のです」 
大島紬の染色工をしながら日本画を描き続け、十数点の奄美の絵を遺して3年前になくなった画家だという。
日本美術界の奇跡とまで言われた日本画家・田中一村は、こうして死の3年後に再び見い出され、松元の渾身の取材の後1984年にNHK教育テレビの「日曜美術館」で紹介されて、世に知られるようになった。
その後、1995~6年にかけて初の大規模な回顧展が全国で開催され、私もそこで初めて彼の絵の実物を見て、その画力に圧倒された。当時会場に何時間いただろう。その時買い損なった回顧展のカタログをこの度ようやく入手したので記念にキーワード化。
田中一村は明治四十一年、栃木の生まれ。七歳の時に児童画で天皇賞を受賞。彫刻家の父は幼い孝(本名)の画才を見抜き、「米邨」という画号を与える。彼はその後も絵の道を歩み続け、十七歳にして「全国美術家名鑑」に名を連ねる。ちなみに日本画・洋画を通じて十代で名鑑に名前があるのは彼だけであった。翌年には東京美術学校(今の東京芸大)に入学。同期には東山魁夷、加藤栄三らがいた。しかし一村は僅か三ヶ月で一身上の都合で退学。その後孤高の道を進み始める。
「一村さんは絵の事となるとまるで別人になりました。」と彼を知る人々は言った。絵の事で議論が始まると只では済まず、激論の末、「絶交」という言葉が投げつけられて終わる事もしばしばあったという。若き日の彼にはその才を買って援助を惜しまぬ理解者も多かったが、彼は、そうした人々に絵を渡す時すら、割り切れぬ思いを抱いていたらしい。
「私は二十三歳のとき、自分の将来行くべき道をはっきり自覚し、その本道と信ずる絵をかいて支持する皆様に見せましたところ、一人の賛成者もなく、当時の支持者と全部絶縁し、アルバイトによって家族、病人を養うことになりました。その当時の作品の一つが、水辺にメダカと枯れハスとフキノトウの図です。今はこの絵をほめてくれる人もだいぶありますが、その時せっかく芽生えた真実の絵の芽を涙を飲んで自ら踏みにじりました。」(知人に宛てた手紙より)
その後彼は千葉に住み、働きながら絵を描き続け、三十九歳の時には第十九回青龍展に屏風絵を出品して入選する。そこに描かれた木の枝に止まった「とらつぐみ」は、彼が自ら孵化し、観察し尽くして描いたものだったという。しかし、しばらくしてその絵を評価した人々と意見が衝突し、以後彼が画壇と関わる事は二度となかった。
四十七歳の時、一村は初めて四国・九州にスケッチ旅行に出かける。南国の自然に魅せられた一村は鹿児島・種子島・屋久島・トカラ列島まで見て回った。
「樹が話しかけてくるようだ」彼は友人にそう語ったという。
この旅行中に色紙に描かれた「由布風景」という絵が、私は特に好きだ。小さな白い花をつけた草花を下から見上げた絵で、花の先には青空が広がっている。まるで草原に寝ころんで空を見上げたような構図のその小品をもう一度見たくて回顧展のカタログを探し続けていたのだが、久々に見たその絵は、七年前に回顧展会場で目に焼きついた絵そのままだった。お久しぶり。
南国旅行の三年後、一村は千葉の家を売って奄美大島に移り住む。以後彼は借家でひとり暮らしをしながら紬工場で働き、数年かけて金を貯めては、金の尽きるまで何年も続けて絵を描き、金が尽きたら又働く という生活を続けた。そうして出来上がった奄美の絵を回顧展で目の当たりにした時に、それは恐ろしいまでの集中力を長く持続させなければ描きあげる事の出来ない、鬼神がとりついたかのような絵だと思った事を今でも覚えている。働きながらではあの絵は描けなかった というのが素人にも朧気ながらわかる気がする、凄みのある絵だった。
「紬工場で、五年働きました。紬絹染色工は極めて低賃金です。工場一の働き者と云われる程働いて六十万円貯金しました。そして、去年、今年、来年と三年間に90%を注ぎこんで私のゑかきの一生の最期の繪を描きつつある次第です。何の念い残すところもないまでに描くつもりです。  画壇の趨勢も見て下さる人々の鑑識の程度なども一切顧慮せず只自分の良心の納得行くまで描いています。一枚に二ヶ月位かゝり、三ヶ年で二十枚はとても出来ません。  私の繪の最終決定版の繪がヒューマニティであろうが、悪魔的であろうが、畫の正道であるとも邪道であるとも何と批評されても私は満足なのです。それは見せる為に描いたのではなく私の良心を納得させる為にやったのですから・・・・・・  千葉時代を思い出します。常に飢に驅り立てられて心にもない繪をパンのために描き稀に良心的に描いたものは却って批難された。私の今度の繪を最も見せたい第一の人は、私の為にその生涯を私に捧げてくれた私の姉、それから五十五年の繪の友であった川村様。それも又詮方なし。個展は岡田先生と尊下と柳沢様と外数人の千葉の友に見て頂ければ十分なのでございます。私の千葉に別れの挨拶なのでございますから・・・・・・。  そして、その繪は全部、又奄美に持ち帰るつもりでもあるのです。私は、この南の島で職工として朽ちることで私は満足なのです。  私は紬絹染色工として生活します。もし七十の齢を保って健康であったら、その時は又繪をかきませうと思います。」
しかし彼は六十九歳で世を去った。きれいな死に顔だったそうだ。