西教寺
西教寺は正しくは、 天台真盛宗総本山戒光山兼法勝西教寺 (てんだいしんせいしゅうそうほんざんかいこうさんけんほっしょうさいきょうじ)といいます。聖徳太子が恩師である高麗の僧慧慈、慧聡のために創建されたと伝えられています。その後、久しく荒廃していましたが、慈恵大師良源上人が復興、念仏の道場としました。恵心僧都も入寺、修業されたところから次第に栄えるようになりました。鎌倉時代の正中2年(1325)に入寺された恵鎮(円観)上人は、伝教大師が畢生の事業として提唱された大乗円頓戒を復興、その後百有余年を経た文明18年(1486)に真盛上人が入寺されるに至り、堂塔と教法を再興、不断念仏の道場とされました。以来全国に約四百余りの末寺を有する総本山となりました。
明智光秀
元亀2年(1571)織田信長の比叡山焼き討ちの際、当寺も災禍を被りました。
その直後に築かれた坂本城の城主となったのが明智光秀でした。光秀は西教寺の檀徒となり、復興に大きく力を注ぎました。総門は坂本城城門を移築したもので、鐘楼堂の鐘は陣鐘です。天正10年にこの世を去った光秀は6年前に亡くなった内室熙子や一族の墓とともに祠られています。
日吉大社
日吉大社(ひよしたいしゃ)は、滋賀県大津市坂本にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 全国に約2,000社ある日吉・日枝・山王神社の総本社である。通称として山王権現とも呼ばれる。西本宮と東本宮を中心に400,000m²の境内を持つほか、猿を神の使いとする。社名の「日吉」はかつては「ひえ」と読んだが、第二次世界大戦後は「ひよし」を正式の読みとしている。
穴太衆積みの石垣
坂本では、里坊や神社や古い民家の石塀などに、穴太衆積み(あのうしゅうづみ)と呼ばれる特異な石積みがみられる。その特色は加工しない自然のままの石面を巧みに用いて石積みの面を構成し自然の美しさを保っている。
公人屋敷 旧岡本邸
ここ坂本は、比叡山延暦寺への物資を供給する門前町として栄えていました。江戸時代になると、多くの里坊(比叡山で修行を積んだ僧侶たちが天台座主の許しを得て住み込む隠居坊)が坂本に造られるようになり、僧侶や日吉大社の神職者などとともに、職人・商人など、多様な人々が生活するようになりました。
その中で、延暦寺の僧侶でありながら妻帯と名字帯刀を認められた「公人」と呼ばれる人々がいました。公人は、三塔十六谷からなる延暦寺の堂舎・僧坊に所属し、治安維持や年貢・諸役を収納する寺務を務めていました。
大津市歴史博物館
第60回企画展 大津百町 -マチから始まるモノがたり- 平成25年 3月2日(土)~4月14日(日)
第60回企画展
大津百町 - マチから始まるモノがたり -
平成25年 3月2日(土)~4月14日(日)
180年前の八町通を描いた浮世絵
歌川広重画 本館蔵
55年前の八町通 谷本勇氏撮影
大津の中心市街地、いわゆる「大津百町」(おおつひゃくちょう)のルーツは、今から400年以上前に築かれた大津城の城下町に求められます。関ケ原合戦を前にした大津籠城戦で廃城となって後、大津は徳川家康によって、宿場町・港町として整備され、本格的な発展の道を歩みます。明治時代になると、鉄道の開通や蒸気船の就航、さらに昭和に入ると湖岸の埋め立てなど、都市の景観は急激な変貌を遂げます。
本展では、現在まで残された、都市の変化を示す痕跡、たとえば舟入堀の跡や、かつての湖岸線に残された石垣、江戸時代の面影を残す町家、八町や突き抜けといった通り名などに焦点を当て、それらの事柄にどのようなマチの歴史が秘められているのかを、現代から江戸時代まで、歴史をさかのぼるような視点で明らかにしていこうと考えています。なお、本展は博物館とまちなかを会場とする「大津百町大博覧会」の一環として開催するものです。